■大洗の岩礁に依りついた石神
岩礁に依りついた「石神」を祀っている神社が、
鹿島灘に面した高台に鎮座する。大洗磯前神社だ。
創建は856年、斉衡(さいこう3年とされ、式内名
神大社で、オオナムチ(大己貴命)を主祭神とし、
スクナヒコナ(少彦名)を配祀する。依りついた
石神が、オオナムチとスクナヒコナと伝わる。磐
座信仰という観点で見れば、神が依りついた岩礁
が磐座であり、依りついた神が石神だったという
特異な例といえる。
『文徳(もん とく)実録』斉衡3年12月29日
の条に、そのときの報告が記されている。
ある夜、塩をつくっている者が光るものを見
た。翌朝海辺にいくと、高さ一尺ばかりのふ
たつの「 怪しい石」があった。
翌日には20あまりの小石が対峙するように、
怪石の左右にあった。石には不思議な彩色がし
てあり、僧侶に似ていたが、耳と目がなかった。
そのとき、塩をつくる者に神が憑 ついて、
「われはオオナムチ・スクナヒコナなり、昔この
国をつくり終えて東海に去ったが、いま、民を救う
ために帰ってきた」といわれた。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■筑波女の神 が降臨した山頂の磐座
深田久弥が、標高876メートルの筑波山を
「百名山」に選んだ「わけ」を申しわけなさそう
に書いている。
筑波山を日本百名山の一つに選んだことに不
満な人があるかもしれない。高さ千メートルにも
足りない、こんな通俗的な山を挙げるくらい
なら、他にもっと適当な名山がいくらでもあ
るではないかと。しかし私があえてこの山を
推す理由の一つは、その歴史の古いことであ
る。
というのも、深田は百名山を選ぶ基準の一つに、
1500メートル以上という山の高さをあげてい
たからだ。とはいいながら、例外がふたつあった。
九州南端の開聞岳と筑波山だ。
深田は筑波山を「通俗的な山」といっているが、
それは「 かがい 歌」とよばれる、歌を詠みかわし、
舞踏して遊ぶ会合、歌垣が盛んに行
われていたことをさしている。大衆の遊楽登山と
表しているが、「筑波山へ登って、その会合で男
から結婚を申し込まれないような女は、一人前で
はないとさえ言われさえした」と記している。
そのうえで、ことさら歴史の古さを強調し、免罪
符のような「いいわけ」を書いている。つまると
ころ、採りあげずにはいられなかったのだ。神山
のよってたつ歴史の深さと重さの由縁だろう。
(『磐座百選』より一部抜粋)
■地震を起こす大鯰の頭を押さえる要石
鹿島神宮へは、利根川の対岸、佐原に鎮座する
香取神宮から始めるといい。というのも、鹿島と
香取は、伊勢神宮の内宮と外宮のように対の神と
して語られることが多く、『日本書紀』でもその
ような扱いをうけているからだ。オオクニヌシ
(大国主神)一族を説得し、「国譲り」を承諾させ
る役割を負わされたのが、鹿島のタケミカヅチ
(武甕槌神)と香取のフツヌシ(経津主神)だった。
いわば、高天原 から葦原中国(日本国)を平定
するために派遣された軍団の総大将が、この二神
ということになる。こうした二神の性格が、鹿島
と香取の位置であり、「 要石 」に託されてきた役
割といえるだろう。
この二神が利根川をはさんで祀られ、しかも延
喜式の「神名帳 」では、伊勢神宮とともに神宮
の称号を与えられている。日本最古の神社の戸籍
簿といえる「神名帳」において、神宮とされたの
はこの三社のみだ。なぜ都から遠く離れた東国に、
伊勢神宮に次ぐ神宮が置かれたのか。この疑問を
解く鍵が要石ではないかと思われる。
(『磐座百選』より一部抜粋)